生活の精度

みなさん、人と同じことさえ経験すれば同じ体験ができると思っていますか?

僕はそうは思いません。

そして、そのように思うきっかけとなったのはこのブログを書き始めたことです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

多くのことを経験するための方法には基本的に2つあると思います。

1. 経験の絶対量をあげる
2. 経験の精度を上げて、相対的な経験量をあげる

一般的に多くのことを経験するといったときに思い浮かべられるのは(1)の絶対量として多くのことを経験することではないでしょうか。

もっと分かりやすくいえば、いろんなことをとりあえずしてみるということですね。

旅行でいえば、とりあえずアジアの国を8カ国くらい回ってみる。美味しいと聞いたレストランにとりあえず行ってみる。いろんな人と話してみる。

自分の行動範囲の円を広げれば、その中に含まれるもの、捉えられる経験が多くなるのは、当然のことと言えるでしょう。

 

一方、相対的な経験量をあげる、ということは少しイメージしにくいかもしれません。

僕が好きな本に辺見庸の「もの食うひとびと」という本があります。内容としては著者が世界各国を旅して周り、それぞれの地域で、食にまつわるルポルタージュを書き、それを集めて書籍としたものです。

著者が旅した地域の中には僕が現在住んでいるフィリピンも含まれています。フィリピンでものを食べる、あるいは現地の人がものを食べている場面を見る経験としては僕の方が多くを経験していますが、辺見庸のような文章がかけるかというと全然そんなことはありません。

もちろん、作家の辺見庸と僕を比べたら筆力が全然違う、というのは分かっています。ただ、その筆力が違うというのは、最初からそこまで大きな違いがあったわけではなく、文章を書こうと思って観察するがゆえに洞察が深くなる、という側面もあるのではないでしょうか。

 

ブログを書き始めて分かったことですが、人は普段周りを見ているようで見えていないものです。

 

例えば、レストランに関する記事を書くときのことです。

「あー、このレストランは前にも行ったことがあるし、写真もあるから、書きやすいだろうな」と思い、以前の写真を見返してみても、ブログで使用するのに耐えうる写真は少ないのではないでしょうか。

その違いは技術ではありません。技術はそんなに短期間で変わらないからです。
その違いはアウトプットする意思があるかどうかです。他の人に見せよう、伝えようと思うことで、自然と丁寧になり、より深く、細部に至るまで物事を観察するようになっていることに気づきました。

f:id:shunsouspeak:20161205211237j:plain
なんの変哲も無いJollibeeのチキンも丁寧に撮ると、美味しそうに見えるものです。

最初はせっかくウェブマーケティングをやっているし、自分自身のブログも作れば文章を書く練習もできるし、日記代わりにもなっていいかな程度の目的で始めたブログですが、いつのまにか自分のものの味方を変えていることに気付かされました。

さらに驚くことに、僕はそんなに長くブログをやっているわけではありません。インターンとして文章を書くことはしていましたが、あくまでそのテーマは英語学習であり、普段の日常生活とは、まぁ、切り離されたテーマであると言えます。

ブログを始めて6週間でこのような変化に気づくのですから、驚いています。今の状態はブログを始める前に比べて、たとえ同じ経験をしたとしても、その経験から多くのことを気付き、記録することができるので相対的に多くのことを経験できるようになっている状態であると言えるでしょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

僕が今回言いたいことをまとめると、以下の3点です。

・アウトプットの場を持つと、ものの見方、意識の持ち方が変わる
・すると、日常生活の観察の精度が高くなる
・結果として、今までと変わらない生活からでさえ、多くのことを見つけれるようになる(いわんや、非日常に飛び込んだ時は今までよりも吸収できるようになる)

そして、上記のことを達成するためにはブログを自分でやってみるといいんじゃないかな、と思ったわけです。

ちゃんと記録が取れるようになると、思い出に残しておきたい瞬間も切り取れるようになるので、人生いろいろ捗ると思います。

以上、記事を書くこと、ブログを書くことを通して前よりも物事がしっかりと見れるような気がしだした僕からのブログのススメでした。

ばおばお〜(フィリピンで流行っている別れの挨拶)